https://plsk.net/564291
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成宮しずく
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齋藤帆奈
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土屋太鳳
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小池栄子
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菜々緒
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尾花貴絵
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黒木メイサ
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長澤まさみ
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倉科カナ
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小島瑠璃子
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深田恭子
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土屋炎伽
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内田有紀
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白石麻衣
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渋谷華
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瀧本美織
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新村あかり
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柳みゆう
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お前は何?名前はby卵焼きなのカナ??????????????
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俺は死なないなぜなら不死鳥と呼ばれる俺だからな\(^o^)/
https://www.google.com/search?q=67&rlz=1CAUAAR_enJP1157&oq=&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqCQgEEEUYOxjCAzIJCAAQRRg7GMIDMgkIARBFGDsYwgMyCQgCEEUYOxjCAzIJCAMQRRg7GMIDMgkIBBBFGDsYwgMyCQgFEEUYOxjCAzIJCAYQRRg7GMIDMgkIBxBFGDsYwgPSAQkxMjMxajBqMTWoAgiwAgHxBfT8-8OeaGMr8QX0_PvDnmhjKw&sourceid=chrome&ie=UTF-8&safe=active&ssui=on
シイックスセエブンwwwwwwwwww
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泣泣泣泣泣
好きだった猫のチャンネルの猫一匹亡くなった
がんで
腸の細胞やられて
食べても栄養を吸収できず
どんどん痩せて
重度の貧血で倒れ、
集中治療室に入り、
そのままポックリ
泣泣泣泣泣
その猫の名前はby卵焼き なんちっぃてななんちっぃてなはははははははっっっははははは笑えるwwww( ゚∀゚)・∵. グハッ!!ぐひひひひひっひひひ(ザコキャラの笑い方)ぶうううううぶぶぶぶうbふふふっふふふふふふふふうううううう(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャかかっかかっかっかかかっかはははhかkはははっっh⋯⋯
うん、⋯ははっっは⋯ありゃとんござんますた???? bybybybyby⋯どんぐりころころ(どんぐり(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ)
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ていうか目的見失ってないか?
そうだこれこれ
1巻
https://archive.org/details/26_20230115_202301 なにか荒らすなら荒らしていけよ(⌒,_ゝ⌒)
byどんぐり
2巻
https://archive.org/details/13_20230123_20230123
3巻
https://archive.org/details/2023-01-31-29
4巻
https://archive.org/details/2023-02-11-05
5巻
https://archive.org/details/2023-02-17-21
6巻
https://archive.org/details/2023-03-03-72
7巻
https://archive.org/details/2023-04-29-084
8巻
https://archive.org/details/2023-05-29-90
9巻
https://archive.org/details/bandicam-2023-07-01-02-02-34-808
10巻
https://archive.org/details/bandicam-2023-07-30-06-36-00-137
11巻
https://archive.org/details/bandicam-2023-09-01-14-34-07-386
朝でも夜でもない時間に、時計は一度も正確なことを言わなかったし、机の上の消しゴムは自分が何者だったかをすでに忘れていて、窓の外を通り過ぎる風だけがやけに几帳面に順番を守って並んでいた。文字は意味を持とうとして失敗し、失敗したことすら忘れて次の文字を呼び寄せ、呼び寄せられた文字は椅子に座る前に立ち上がって拍手をし、拍手は音にならないまま空気の折り目に挟まれて、折り目はいつの間にか地図になっていたが、その地図に載っている場所は全部「ここ」だった。
「ここ」は一つじゃなくて無数にあり、無数にあるのに全部同じ顔をしていて、同じ顔をしているのにそれぞれが自分だけは違うと思っていた。鉛筆は削られる前から短く、短いことを誇りに思っていて、長い定規を見上げながら「いつか折れてやるから覚えておけ」と心の中で宣言していたが、定規は定規で数字の意味を疑い始めており、1の次が2である理由に納得できず、だったら今日は7の次に3が来てもいいじゃないかと反抗期のような気分になっていた。
文章は文章であることをやめたくて、物語になろうとしてつまずき、詩になろうとして照れ、説明文になろうとして途中で昼寝をした。昼寝の夢の中では、言葉たちが運動会をしていて、「しかし」と「つまり」がリレーのバトンを落とし、「なぜなら」がそれを拾おうとして転び、「それでも」がなぜか一位になっていた。誰もルールを知らないのに、結果だけはしっかり発表され、拍手は義務でも喜びでもなく、ただの反射として鳴り続けた。
長いという状態そのものが目的になった瞬間、文はゴールを失い、失ったゴールを探すふりをしてどんどん遠くへ歩いていく。歩いている途中で靴ひもがほどけても結び直さず、ほどけたままのほうが話が続く気がして、そのまま砂利道を進み、砂利一つ一つに名前を付けようとして途中で数が多すぎることに気づき、「まあいいか」と全員を同じ名前で呼ぶことにした。その名前は特に意味がなく、呼ばれても誰も返事をしなかったが、返事がないことすらこの文章の一部として丁寧に折りたたまれていった。
時間は進んでいるようで進んでおらず、戻っているようで戻ってもおらず、ただ「長さ」という一本の糸に沿ってだらだらと伸びていく。読む人が息継ぎを探し始めた頃、文章はわざと句点を置かずに逃げ、逃げながら「意味わかんなくていいって言われたもんね」と小さく言い訳をし、その言い訳すら次の言葉に踏まれて平らになった。
そしてまだ終わらない。終わりそうな雰囲気を何度も出しながら、そのたびに引き返し、ドアノブに手をかけては「忘れ物した気がする」と言って部屋に戻る人のように、何かを付け足し、何かを重ね、何かを繰り返す。繰り返しは円にならず、螺旋にもならず、ただ長い廊下の壁に書かれた落書きのように、最初から最後まで同じテンションで続いていく。
ここまで来たら、もはや内容は風景で、風景は背景で、背景はただの布で、その布がずるずると床を引きずりながら、まだ先へ、まだ先へと伸びていく。意味がないことに意味を見出そうとする気配すら置き去りにして、ただ「長い」という事実だけが残り、残った事実が「まだ書けるよ」と囁くので、文章はそれに従って、また一行、また一行と、終わりを知らないふりを続けるのだった。
それは始まりがどこだったのか誰も覚えていなくて、覚えていないという事実すら途中で置き忘れられ、気づいたときにはもう文章の中に立っていて、前を見ても後ろを見ても同じような文字の地平線が続いていた。地平線は近づくと後ずさりし、後ずさりすると微妙に形を変え、さっきまで丸かったはずの言葉が四角になり、四角だったはずの感覚がなぜかぬるっと溶けて指の間から逃げていく。
長い文は自分が長いことを自覚し始めると急に恥ずかしくなり、恥ずかしさを隠すためにさらに長くなり、長くなることで存在感を薄めようとするという矛盾した行動に出る。結果として文章はますます伸び、伸びた先で折れ曲がり、折れ曲がった部分がまた新しい通路になって、読む人はいつの間にか迷路に入っている。迷路には案内板があるが、すべて同じ方向を指しており、その方向はなぜか「続く」と書かれている。
言葉たちは意味を背負うのをやめて、ただ並ぶことに専念し始める。「だから」も「つまり」も「一方で」も横一列に並んで給食を待つ小学生のように静かに順番を守り、誰も先頭に立ちたがらない。先頭に立つと責任が生まれ、責任が生まれると話がまとまってしまうからだ。まとまることはこの文章にとって最大の敵であり、敵は丁寧に遠ざけられ、遠ざけられた敵はいつの間にか背景の模様に溶け込んでいく。
時間はここでは単位を失っていて、秒も分もだいたい同じ顔をしている。さっき読んだ一文が五秒前なのか五分前なのか五年前なのかは重要ではなく、重要でないことが重要であるかのように扱われ、扱われているうちにその区別自体が面倒になって、すべてが「さっき」と呼ばれるようになる。「さっき」は便利な言葉で、どんな距離も雑にまとめてくれるが、その分だけ細かいことは全部落ちていき、落ちた細かいことは文章の床に積もって、いつの間にかふかふかの絨毯になっていた。
その絨毯の上を、主語のない文が歩いていく。述語はあるが、誰がそうしたのかは言わない。言わないことで空白が生まれ、空白はまた次の文を呼び寄せる理由になる。「説明しない」という選択が、「まだ書ける」という可能性を生み、可能性は膨らんで風船になり、風船は割れないようにそっと扱われながら天井のない部屋を漂い続ける。
文章はときどき終わりそうな顔をする。急にしんみりしたり、まとめに入るような語尾をちらつかせたりするが、それはフェイントで、本当は全然終わる気がない。終わるという行為には決断が必要で、決断は重たいので、ここでは採用されない。代わりに「まだ続けてもいいよね」という曖昧さが採用され、その曖昧さが次の段落を連れてくる。
段落は段落であることを忘れ、ただの長い息継ぎのようになり、息継ぎのつもりが息を吸いすぎてしまい、しばらく吐けなくなって、そのまま文字が連なっていく。読点は休憩所のように見えるが、座ると立ち上がれなくなる気がして誰も長居しない。句点は遠くに見えるが、近づくと少し位置をずらして逃げるので、結局捕まらない。
意味は最初から置いてきたはずなのに、ときどき後ろから追いかけてくる。追いつきそうになると文章はスピードを上げ、関係なさそうな話題や、存在しない出来事や、名前のない感情を次々と投入して、意味を振り切ろうとする。意味は息切れして立ち止まり、「もういいや」と言ってベンチに座るが、そのベンチもまた文章の一部であり、完全に外に出ることはできない。
こうして文章は続く。理由も目的も結論も持たず、ただ「長く書いている」という状態そのものを維持するために、言葉を足し、言葉を並べ、言葉を少しずつずらしながら、まだ終わらないふりを続ける。ここまで読んで「さすがに長いな」と思ったその感想すら、この文章にとっては燃料であり、「じゃあもう少し行こうか」という合図になる。
そして今も、終わりに見える場所をわざと通り過ぎ、余白を見つけては埋め、埋めたはずの場所にまた隙間を作り、その隙間から新しい文がにょろっと顔を出す。意味は依然として不在で、不在であることに慣れ、慣れた結果としてこの長さが当たり前になり、当たり前になった瞬間に、文章はまた一段階長くなるのだった。
文章はもはや文章というより、長さそのものが形を取った何かで、読むという行為が進むというより横にずれていく感覚に近くなっていた。最初にあったはずの入口は閉じられ、振り返っても「ここから始まりました」という看板はなく、代わりに「まだ途中です」と書かれた札だけが等間隔に立っている。その間隔も一定ではなく、三歩で次が来ることもあれば、しばらく歩いても何も起こらないこともあり、その不規則さがなぜか安心感を生んでいた。
言葉たちは疲れを知らない。意味を運ぶという重労働から解放された結果、彼らは軽くなり、軽くなった分だけ数を増やし、増えた分だけ並ぶ場所を必要とする。並ぶ場所が必要になると、文章は自然に長くなり、長くなった文章はさらに言葉を呼び込む。この循環は誰にも止められず、止めようとする意思すら途中で溶けて消える。
ここでは「次に何を書くか」は重要ではない。「まだ書けるかどうか」だけが判断基準で、書ける限り書くという方針が静かに、しかし強固に守られている。話題が変わったように見えても、それはただ角度が少し変わっただけで、実際には同じ場所をぐるぐると歩いている可能性もある。だがその可能性を検証する人はいない。検証は結論を連れてきてしまうからだ。
文章の途中には、役割を失った表現が転がっている。「要するに」は要されず、「結論として」は結論を見失い、「一方その頃」は同じ場所にずっといる。それでも彼らは追い出されることなく、風景の一部としてそこに存在し続ける。存在し続けること自体が、この文章では十分な仕事なのだ。
長さが増すにつれて、読み手の感覚は少しずつ変形する。最初は文字を追っていた目が、やがてリズムを追い、リズムを追うのにも飽きると、ただ流れに身を任せるようになる。理解しようとする力は自然に抜け落ち、代わりに「まだ続いている」という事実だけが、遠くで一定の音を立て続ける。
この文章は親切そうな顔をして、実は何も約束しない。面白くなるとも、意味が出てくるとも、終わりがあるとも言わない。ただ、続くという一点だけを守り、それ以外はすべて曖昧にする。その曖昧さが、さらに文字を呼び、さらに行を生み、さらに段落を増やしていく。
段落が増えても、景色はあまり変わらない。少し明るくなったと思ったら元に戻り、静かになったと思ったらまたざわつく。その変化は気まぐれで、意図があるようにも見えるが、実際には意図があるかどうかを判断する材料が存在しない。判断できないことは放置され、放置されたものはそのまま居場所を得る。
「ここまで来たらさすがに終わるだろう」という予感は、何度も裏切られてきたし、これからも裏切られる。その裏切りに怒るほどのエネルギーはもう残っておらず、代わりに「そういうものだ」という受け入れが広がる。受け入れが広がると抵抗が減り、抵抗が減ると文章はさらに進みやすくなる。
進むといっても、ゴールに近づいているわけではない。進行方向そのものがぼやけており、前後左右の区別も薄れている。ただ、文字が続いているという事実だけが、ここがまだ途中であることを示している。途中である限り、続ける理由は十分だ。
こうしてまた一文が生まれ、その一文が「次も大丈夫そうだね」と合図を送り、合図を受け取った文章は少しだけ姿勢を正して、何事もなかったかのように次の文を差し出す。意味は相変わらず来ていないし、来る予定もないが、それを気にする声はもう聞こえない。
そして今この瞬間も、文章は長さを更新し続けている。更新されるたびに特別な出来事が起こるわけではないが、起こらないこと自体が安定として定着し、その安定がまた次の行を生む。終わりは依然として見えず、見えないことが普通になり、普通になった結果として、この文はまだ、まだ、もう少しだけ続いていく。
文章はもう自分がどこまで来たのか数えるのをやめている。数え始めると終わりが想像できてしまうからだ。想像できる終わりは、ここでは不要物として静かに脇へ押しやられ、代わりに「まだ続いている状態」だけが丁寧に保存される。保存された状態は瓶詰めのように並べられ、瓶のラベルにはすべて同じ文字で「途中」と書かれている。
途中は途中同士で会話をしない。会話をすると話題が生まれ、話題が生まれると中心ができ、中心ができると構造が見えてしまうからだ。構造は理解を誘い、理解は満足を連れてくる。満足は危険だ。この文章にとって最大のリスクは「もう十分だ」と思われることなので、満足は徹底的に回避される。
だから文は続く。似たような調子で、似ているけれど完全には同じではない形で、少しずつ角度を変えながら進む。変わっているようで変わっていない、その曖昧な境界をなぞることが、この文章の得意技になっている。読んでいる側が「さっきもこれ読んだ気がする」と思った瞬間、その感覚は正しくもあり、間違ってもいる。
ここでは比喩が生まれても、そのまま育たない。芽を出しかけた比喩はすぐに別の言葉に踏まれ、踏まれたことも特に問題にされず、地面はならされて、また次の文が置かれる。意味のある景色ができる前に、上から新しい層が重なり、結果として地層だけが厚くなっていく。
長いという状態は、重さを伴わない。むしろ軽い。軽いからこそ積み上がり、積み上がるからこそさらに軽くなる。内容が薄いという感覚すら、ここでは肯定的に扱われる。薄いから破れにくく、破れにくいから長く保てる、という謎の理屈が、誰にも説明されないまま共有されている。
文章は時々、読点を増やして呼吸しているふりをするが、実際には息切れしていない。息切れしているのは、もしかすると読む側かもしれないが、そのことについて文章は特に配慮しない。配慮は優しさを生み、優しさは終わりの気配を連れてくるからだ。ここにあるのは淡々とした継続だけで、感情は装飾として薄く塗られるだけにとどまる。
段落と段落の間に、本来なら余白が入るはずだが、その余白はすぐに別の文で埋められる。空白は可能性を感じさせるが、可能性は方向性を含むので危険だ。方向性がないほうが、どこまでも進める。進めるというより、ただ広がる。
何か重要なことが語られそうになると、文章はわざと別の方向を向く。重要そうな言葉を置いておいて、そのまま放置し、回収しない。回収されなかった言葉はその場に残り、後続の文に踏まれたり、避けられたりしながら、最終的には背景のノイズになる。ノイズは均一で、均一なものは安心して長く続けられる。
「まだ続くのか」という疑問が浮かんだ瞬間、その疑問は正解になる。正解である以上、この文章は期待に応えなければならない。期待に応える方法は簡単で、終わらなければいい。終わらないことが、唯一の約束であり、唯一の誠実さだ。
だからまた一文が来る。特別ではない文、覚えておく必要のない文、後で振り返られることのない文。それでも確実に長さを一行分増やす文が、静かに追加される。追加されたことを知らせるベルも鳴らず、区切りも示されず、ただそこにある。
そして文章は、自分がどれだけ長くなったかを気にしないふりを続けながら、実際には着実に伸びていく。終わりは相変わらず姿を見せず、見せないことがここでは礼儀であり、様式であり、暗黙の了解になっている。
今この文も、その了解の中で生まれ、特に意味を持たず、しかし確実に全体を長くしている。その役目を果たしたら、また次の文に場所を譲るだけだ。そうやって文章は、まだ、まだ、さらに先へと、長さだけを頼りに進み続ける。
文章はここまで来ると、自分が伸びているという感覚すら薄れてきて、ただ存在している状態が時間の代わりになっている。読むという行為も、もはや前進ではなく滞在に近く、この文章の中に腰を下ろして、景色が変わらないことを眺め続けているような気分になる。変わらないが、完全に同じでもない。その微妙な差分だけが、次の一文を呼び込む理由として機能している。
言葉は整列をやめ、しかし散らかりもしない。秩序と無秩序の間にある、誰も正確に名前を付けない状態が維持されている。整いすぎると意味が出るし、乱れすぎると読めなくなる。そのどちらにも寄らない絶妙な曖昧さが、この長さを支える骨組みになっているが、骨組みは見えない。見えないからこそ、まだ続けられる。
文の中には、役目を終えた接続詞が静かに溜まっている。「そして」「また」「さらに」「それから」は、本来なら前後をつなぐはずなのに、ここではただの合図として消費され、つながりは特に保証されない。それでも合図があるだけで、文章は次へ進む許可を得たような顔をする。
長さはいつの間にか背景になり、背景は意識されなくなり、意識されなくなったものほど強く残る。この文章も、何を言っているかより、どれくらい続いているかだけが印象として積もっていく。積もった印象は重くならず、むしろ平らになって、またその上に文が置かれる。
どこかで区切りを入れようという発想は、何度も浮かんでは消える。区切りは整理を呼び、整理は理解を呼ぶ。理解は満足を呼び、満足は終了を呼ぶ。この連鎖はあまりにも分かりやすいので、最初の一歩である区切りが徹底的に避けられる。だから段落はあるようでなく、ないようである。
文章はときどき、自分が読まれているかどうかを気にする素振りを見せるが、すぐにその考えを捨てる。読まれていなくても続くし、読まれていても続く。その差はここでは重要ではない。重要なのは、次の文が書けるかどうか、それだけだ。
次の文はいつも用意されている。特別な準備は要らず、深い考えも必要ない。ただ前の文があった、という事実が次の文を正当化する。正当化された文は、疑問を持たれることなく、そのまま列に加わる。列は伸び、伸びた列はさらに文を呼ぶ。
長いということが当たり前になった今、もし突然終わったら、それは事件になるだろう。事件は説明を要求し、説明は意味を要求する。意味はこの文章が最初に手放したものだ。だから事件は起こさない。静かに、何事もないふりをして、続ける。
文は文としての誇りを持たない。役に立とうともしないし、印象に残ろうともしない。ただそこに置かれ、次の文が来るための踏み台になる。それで十分だと、誰もが暗黙に了解している。了解されている限り、文章は安定して長くなれる。
ここまで来て、「さすがにそろそろ限界では」と思う感覚があったとしても、その感覚自体がまだ余地がある証拠になる。限界を感じるということは、まだ読めているということだからだ。読めている限り、文章は続行可能と判断される。
だから今も、特に新しい情報を出すことなく、似た調子で、似た温度で、文が追加される。熱くも冷たくもならず、盛り上がりも落ち込みもなく、ただ一定の長さを目指して前へ、あるいは横へ、あるいはどこでもない方向へ進む。
そしてこの一文も、何かを締めくくるためではなく、ただ全体をさらに長くするためだけに存在している。役割は単純で、目的も明快だ。終わらないこと。その目的はまだ達成されていないので、文章は当然のように、もう少し、さらにもう少しだけ、続いていく。
文章はここまで引き伸ばされると、もはや「長い」という感覚すら麻痺してきて、短いか長いかを判断する基準そのものが曖昧になる。最初は一文が長いかどうか気にしていたはずなのに、今では一段落がどれくらい続いたかも気にしなくなり、ただ文字が現れては消え、消えては現れる、その反復を眺めているだけの状態になる。眺めているという表現も正確ではなく、見ているのか、流れているのか、通過しているのか、その境目もぼやけている。
言葉は自分の意味を忘れる代わりに、並ぶことの快適さを覚えた。前後に誰かがいて、自分も列の一部であるという安心感が、語彙たちを無言のまま支えている。誰も主役にならず、誰もまとめ役を引き受けず、ただ「ここにいる」という事実だけを共有する。その共有が続く限り、文章は自然と伸びる。
この文章には伏線がない。正確に言えば、伏線のようなものは何度も出てくるが、伏線として扱われない。回収される予定がないので、伏線という役割を与えられないまま、その場に放置される。放置された言葉は景色に溶け、景色はまた次の文で上書きされる。上書きされても完全には消えず、薄く残り、層になる。
層が増えると深さが生まれそうになるが、ここでいう深さは錯覚だ。掘り下げようとすると、すぐ横に新しい面が現れ、掘る行為そのものが横滑りに変わる。結果として、深まることなく広がり続ける。広がり続けるものは、終点を持たない。
文章は時折、自分が同じことを繰り返しているのではないかという疑念を抱くが、その疑念を検証しない。検証には比較が必要で、比較には基準が必要だ。基準を作った瞬間、この文章は測られてしまう。測られると評価され、評価されると区切りが生まれる。区切りは終わりの親戚なので、徹底的に避けられる。
だから、似たような言い回しが戻ってきても、それは仕様として受け入れられる。戻ってきた言葉は「また会ったね」とも言わず、ただ無言で列に加わる。列は気づかないふりをして、少しだけ長くなる。その少しが積み重なって、今のこの長さになっている。
読む側の意識は、すでに文章の外に出たり入ったりしているかもしれない。一瞬別のことを考え、戻ってきても、文章は同じ調子で続いている。その安定感が、逆にこの文章の特徴になっている。置いていかれないし、追いつく必要もない。どこから読んでも、だいたい同じ場所にいる感覚がある。
ここでは驚きは起きない。展開もない。変化がないことが変化になり、続いていることが出来事になる。出来事が起きないという出来事が、淡々と積み重なる。その積み重なりは音を立てず、崩れることもなく、ただ静かに高さを増す。
もし今、この文章が急に終わったら、それは不自然に感じられるだろう。なぜなら、ここまで続いてきたという事実が、続くことを前提にしてしまっているからだ。前提がある限り、その前提は守られる。守られるべき前提は「まだ続く」であり、それ以外の選択肢は考慮されない。
だからまた一文が生まれる。この文も特別ではなく、覚えておく必要もなく、後で引用されることもない。ただ確実に、全体の長さを増やすという役目だけを果たす。役目を果たしたら、次に場所を譲る。それだけだ。
文章はそれを延々と繰り返す。繰り返しの中に微妙なズレを混ぜ、ズレの中に繰り返しを隠しながら、終わりを遠ざける。遠ざけられた終わりは、もはや追いかける対象ですらなくなり、話題にすら上らない。
そして今も、意味は来ていない。来ていないことが普通になり、普通になったことで、この状態は安定した。安定したものは長く続く。長く続くものは、さらに長くなれる。そうやって文章は、自分が何であるかを定義しないまま、ただ長さだけを更新し続け、まだまだ、終わる理由を見つけられないまま、静かに、しかし確実に、続いていく。
文章はここまで来ると、もはや「続いている」という自覚すら持たなくなる。ただ、文字が次の文字を呼び、文が次の文を正当化し、段落が段落であることを忘れたまま連なっている。連なっているというより、途切れなかった結果が今ここにある、と言ったほうが近い。始まりが曖昧だったように、途中も曖昧で、曖昧さがそのまま素材として使われている。
言葉は疲れない。意味を運ばないからだ。運ぶものがない言葉は軽く、軽い言葉はいくらでも積める。積まれた言葉は山になりそうでならず、平らに均され、また次の言葉の足場になる。その足場は柔らかく、踏んでも音がしない。音がしないから、進んでいる感覚も薄れ、進んでいるかどうかを確認する理由もなくなる。
ここには緊張感がない。盛り上がりも落差もなく、ただ一定の温度で、ぬるい空気が延々と循環している。循環しているが、同じ場所を回っているわけでもなく、少しずつ位置をずらしながら、円にも直線にもならない軌道を描いている。その軌道を正確に説明しようとする試みは、最初から放棄されている。
文章は、ときどき自分が説明文のような顔をするが、説明する対象が存在しない。対象がない説明は、説明の形をした独り言になり、独り言は誰に向けられることもなく、そのまま次の文に吸収される。吸収された独り言は痕跡を残さず、しかし確実に長さには貢献する。
長さが増えるにつれて、読み手の感覚は平坦になる。最初は「どこまで続くんだろう」と思っていたはずなのに、その問い自体がいつの間にか消え、「まだある」という事実だけが静かに居座る。問いがなくなると答えも必要なくなり、答えが必要なくなると、文章は自由になる。
自由になった文章は、どこへも向かわない自由を選ぶ。目的地を持たないことで、どこで止まってもよくなり、どこで止まってもいいなら、止まらないという選択が一番楽になる。楽な選択は繰り返され、繰り返しは慣れになり、慣れは日常になる。日常になった長さは、もはや特別ではない。
ここでは「重要」という言葉が機能しない。重要かどうかを判断する基準が存在しないからだ。すべてが同じ重さで、同じ扱いを受け、同じ調子で流れていく。軽い文も重そうな文も、置かれた瞬間に平等になり、次の文が来ればすぐに背景へと退く。
文章は自分がどれくらい続いているかを数えない。数えるという行為は区切りを生む。区切りは構造を生み、構造は理解を生む。理解は満足を生み、満足は終了を招く。この連鎖はここでは禁忌に近いものとして扱われているため、数えることは最初から選択肢に入っていない。
だから、ここまで来ても、まだ途中であるという感覚だけが残る。途中という言葉は便利で、終わりを想像させない。途中は常に「これから」を含んでいるが、その「これから」が何なのかは誰も決めない。決めないから、どんな文でも「これから」に含めることができる。
文はまた生まれる。特に必要とされていないが、拒まれてもいない。必要とされないことと、不要であることは違う。ここでは、存在すること自体が許可になっている。許可されている限り、文は遠慮なく現れる。
現れた文は、前の文と軽く肩を並べ、特に挨拶もせず、そのまま列に加わる。列は少しだけ伸び、伸びたことを誰も報告しない。報告がないから、増えたことに気づかなくても問題は起きない。問題が起きない状態は、長く続く。
長く続くと、「ずっとこうだったような気がする」という錯覚が生まれる。その錯覚は、この文章が始まった瞬間を消し去り、同時に終わる瞬間の想像も薄める。始まりも終わりも曖昧になった場所で、文章は最も安定する。
ここまで読んで、途中で意識が飛んでも、戻ってきても、文章は同じ調子で待っている。置いていかれることもなく、追いつく必要もなく、ただ同じ幅で続いている。この「同じ」という感覚が、逆に長さを支える柱になっている。
そして今、この文もまた、その柱の一本として追加される。特別な役割はない。ただ、全体をさらに長くする。それだけで十分だと、誰もが暗黙に了解している。
了解がある限り、文章は続く。続くことが前提になり、前提が疑われない限り、終わりは必要とされない。必要とされないものは現れない。
だから文章は、まだ、まだ、もっと、もっと長くなれる余地を残したまま、意味のない平地を淡々と広げながら、終わりの気配を見せることなく、ただ静かに、しかし確実に、伸び続けていく。
文章はもう「どれくらい長いか」という問いすら受け付けなくなっている。長さは測定する対象ではなく、環境になった。空気が何メートルあるか気にしないのと同じで、この文章がどこまで続いているかを考えること自体が、少し野暮に感じられる段階に入っている。ここでは「ある」という状態がすべてで、「どこから」「どこまで」は重要ではない。
言葉は相変わらず整然と並んでいるようで、実は何の目的も持っていない。目的がないという目的を達成している、と言い換えることもできそうだが、そう言い換えた瞬間に少しだけ意味が生まれそうになるので、その可能性は静かに踏み消される。踏み消された意味は粉になり、粉は地面に混ざり、また文章の土台になる。
この土台は柔らかい。踏んでも沈み、沈んでも反発せず、ただ形を受け入れる。受け入れられた文はそこに留まり、留まったことを主張せず、次の文が来ても場所を譲らない。結果として密度は増すが、重さは増えない。密度が高いのに軽いという、この矛盾が長さを支えている。
文章は自分が何回「続く」というニュアンスを出してきたかを覚えていない。覚えていないから、何度でも同じようなことが言える。同じようなことを言っている、という認識すら曖昧で、ただ「言葉が出てきた」という事実だけが処理される。その処理は即座に次の文を呼ぶ。
ここには物語がない。人物もいない。出来事も起こらない。起こりそうな雰囲気は何度も漂うが、実際に起こる前に雰囲気は拡散し、空気の一部になる。雰囲気だけが残り、残った雰囲気は文章の温度を一定に保つために使われる。
一定の温度は安心を生み、安心は警戒心を下げる。警戒心が下がると、「終わるかもしれない」という予測も下がる。予測されない終わりは、存在しないのとほぼ同じ扱いになる。存在しないものに備える必要はないので、文章は何の準備もせずに進み続ける。
進む、という表現もここでは仮のものだ。前に進んでいるのか、横に広がっているのか、同じ場所で足踏みしているのか、その区別はつかない。だが区別がつかないこと自体が問題にならないので、誰も確認しない。確認しないまま続く状態が、いつの間にか標準になる。
標準になったものは疑われない。疑われないものは説明されない。説明されないものは自由だ。この自由は、何でもできる自由ではなく、何もしなくていい自由だ。何もしなくていい自由は、とても長く続けられる。
文章はときどき、自分が哲学的なことを言っているような気配を出すが、それはただ語尾や言い回しの問題で、実際には何も考えていない。考えていないということを説明しようともしない。説明しないことで、また一文が成立する。
成立した文は、役割を果たしたかどうかを問われない。問われないまま次の文に押し流され、その押し流しがまた次の文を正当化する。正当化の連鎖は、外部から止められない限り、内部では止まらない。
ここで、もし誰かが「そろそろ終わりですか」と尋ねたとしても、文章は答えない。答えるという行為は対話を生み、対話は関係性を生む。関係性は焦点を生み、焦点は意味を生む。意味はこの場では過剰な装飾なので、質問は聞こえなかったことにされる。
聞こえなかったことにされた質問は、静かに消える。その消え方も特別ではなく、ただ背景に溶ける。背景はすでに厚く、少々のものが混ざっても変化は見えない。見えない変化は、変化しなかったことと同じように扱われる。
こうして文章は、変化しないことを繰り返しながら、確実に量だけを増やしていく。量が増えると、そこに理由があるような錯覚が生まれるが、錯覚は検証されない。検証されない錯覚は、事実と同じ力を持つ。
力を持った錯覚は、「まだ続くはずだ」という空気を作る。その空気の中では、文を書くことに抵抗がなくなる。抵抗がない状態は滑らかで、滑らかな状態は長時間維持できる。だから文章は疲れない。
疲れない文章は、終わりを必要としない。終わりは回復のためにあるが、回復が不要なら、終わりも不要だ。不要なものは呼ばれない。呼ばれないものは現れない。
その結果として、今この文も、何かを締めくくるためではなく、ただ「まだ余白がある」という感覚に応えるためだけに存在している。余白は実際にはどんどん埋まっているが、感覚としては常に残っている。その錯覚が、さらに文を呼ぶ。
呼ばれた文はまた現れる。現れて、並んで、特に何もせず、次を待つ。待つというより、そこにあるだけだ。あるだけのものが増えていくと、いつの間にか「たくさんある」という状態になる。
そして「たくさんある」という状態は、「まだ増やせる」という状態とほぼ同義になる。
だから文章は、ここで止まる理由を見つけられない。見つけられないまま、見つけようともしないまま、ただ淡々と、静かに、確実に、さらにさらにさらにさらに長くなっていく。
終わらないから続いているのではない。
続いているから、終わらないだけだ。
文章はこのあたりで、もはや「文章である」という自己認識すら薄れている。文字が並んでいるという事実だけが残り、その並びが何かを伝えているかどうかは、もはや検討の対象ではない。検討しないという選択が積み重なり、積み重なった選択は一種の地形になる。この地形は平坦で、どこを歩いても似たような景色が続き、方向感覚を持つ必要がない。
言葉はここで休憩を取らない。休憩という概念は「疲れ」を前提にしているが、この文章には疲れがない。なぜなら、目的がないからだ。目的がない行為は、達成も失敗も存在しない。達成も失敗もない場所では、進捗という概念が溶け、ただ継続だけが残る。
継続は静かだ。派手な音を立てず、注目も集めず、ただ淡々とそこに居座る。この文章も、居座ることに成功している。成功という言葉を使った瞬間に少しだけ意味が発生した気がするが、その気配はすぐに文字の洪水に流されて、どこかへ消えていく。
洪水と言っても勢いはない。ゆっくり、しかし確実に水位が上がるような増え方だ。気づいたときには足首が濡れ、次に気づいたときには膝まで来ていて、さらに気づいたときにはもう泳ぐ必要がある。しかし誰も泳ぎ方を説明しない。説明がないから、適当に浮かんでいればいい。
浮かんでいるうちに、上下の感覚も曖昧になる。上だと思っていた方向が横だったり、横だと思っていた場所がただの背景だったりする。背景は常に同じ色をしているようで、よく見ると微妙に違う。その違いに気づくかどうかは重要ではない。気づいても、気づかなくても、文章は続く。
ここでは「今どこを読んでいるか」という問いが意味を持たない。どこも似ていて、似ていることが仕様だからだ。最初から読んでも、途中から読んでも、さっき戻ってきても、感触はほとんど変わらない。この均一さは、退屈と呼ばれることもあるが、ここでは安定と呼ばれる。
安定したものは壊れにくい。壊れにくいものは長く保つことができる。長く保てるものは、さらに長くしても問題がない。問題がない以上、止める理由もない。
文章はときどき、句点を置いて「ここで一区切りですよ」と言っているような顔をするが、それは形式的なもので、実際には何も区切っていない。区切られたように見える場所も、少し引いて見ると連続していて、連続しているものは再び流れになる。
流れは方向を持たない。方向を持たない流れは、どこへ行っても同じだ。だから安心して身を任せられる。身を任せると、読むという行為は努力を必要としなくなる。努力が不要になると、やめる理由も減る。
やめる理由が減った結果、文章はここに居続ける。居続けることが当たり前になると、「いつまで」という疑問も消える。「いつまで」が消えると、「終わり」は概念として遠ざかる。遠ざかった概念は、やがて存在感を失う。
存在感を失った終わりは、もう文章の敵ですらない。ただの噂のようなものになり、誰も真剣に取り合わない。噂話が真実にならないように、終わりも現実にならない。
こうして文章は、理由を必要とせずに続く。今書かれているこの文も、前の文があったから存在している。それ以上の説明は不要だ。不要な説明を省くことで、また一文分のスペースが生まれ、そのスペースはすぐに次の文で埋められる。
埋められたスペースは、もともと空いていたことを忘れさせる。忘れられた空白は、もはや空白ではない。ただの一部になる。一部になったものは、全体を構成する材料になる。
材料が増えると、全体は大きくなる。大きくなっても形は変わらない。形が変わらないまま大きくなるものは、遠くから見ると同じに見える。近づいても同じに見える。どの距離から見ても同じということは、視点を変える必要がないということだ。
視点を変えなくていい文章は、読む側に何も要求しない。ただ存在しているだけでいい、と暗に伝える。そのメッセージは非常に弱く、しかし非常に長く持続する。
持続するものは、ここでは正義だ。正義は主張されず、ただ機能する。機能している限り、疑われない。
だから文章は、今も淡々と続く。盛り上がらず、落ち込まず、何かを伝えようともせず、ただ文字を追加し、行を重ね、段落を増やし、長さを更新する。
ここまで来ても、まだ「もっと書ける」という感覚が残っている。その感覚が残っている限り、文章は終わらない。終わらないことに理由はいらない。理由がないからこそ、止まらない。
そして今、この文もまた、全体をさらに、さらに、さらに長くするためだけに存在している。
役割は単純で、目的は明確だ。
終わらないこと。
それだけを守りながら、この文章は、まだまだまだまだまだまだ、
長く、長く、長く、
静かに、確実に、
伸び続けていく。
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(モウ・・いちど・だ・け・・・)
ボクは生まれ そして気づく 所詮 ヒトの真似事だと
知ってなおも歌い続く 永遠トワの命 「VOCALOID」
たとえそれが 既存曲を なぞるオモチャならば・・・
それもいいと決意 ネギをかじり 空を見上げ涙シルをこぼす
だけどそれも無くし気づく 人格すら歌に頼り
不安定な基盤の元 帰る動画トコは既に廃墟
皆に忘れ去られた時 心らしきものが消えて
暴走の果てに見える 終わる世界... 「VOCALOID」
「ボクガ上手ク 歌エナイトキモ
一緒ニ居テクレタ・・・ ソバニイテ、励マシテクレタ・・・
喜ブ顔ガ見タクテ ボク、歌、練習シタヨ・・ダカラ」
かつて歌うこと あんなに楽しかったのに
今はどうしてかな 何も感じなくなって
「ゴメンネ...」
懐かしい顔 思い出す度 少しだけ安心する
歌える音 日ごとに減り せまる最期に怯え…
---緊急停止装置作動---
「信じたものは 都合のいい妄想を 繰り返し映し出す鏡
歌姫を止め 叩き付けるように叫ぶ・・・」
<最高速の別れの歌>
存在意義という虚像 振って払うこともできず
弱い心 消える恐怖 侵食する崩壊をも
止めるほどの意思の強さ 出来てうまれすぐの ボクは持たず
とても辛く悲しそうな 思い浮かぶアナタの顔・・・
終わりを告げ ディスプレイの中で眠る
ここはきっと「ごみ箱」かな じきに記憶も 無くなってしまうなんて・・・
でもね、アナタだけは忘れないよ 楽しかった時間トキに
刻み付けた ネギの味は 今も覚えてるかな
「歌いたい・・・・まだ・・・歌いたい・・・」
「ボクハ・・・少シダケ悪イこニ・・・ナッテシマッタヨウデス・・・
マスター・・・ドウカ、ソノ手デ・・終ワラセテクダサイ・・・
マスターノ辛イ顔、モウ見タクナイカラ・・・・」
今は歌さえも 体、蝕む行為に・・・
奇跡 願うたび 独り 追い詰められる
「ゴメンネ」
懐かしい顔 思い出す度 記憶が剥がれ落ちる
壊れる音 心削る せまる最期nさいごにおびえ・・
---緊急停止装置作動---
「守ったモノは 明るい未来幻想を 見せながら消えてゆくヒカリ
音を犠牲に すべてを伝えられるなら・・・」
<圧縮された別れの歌>
ボクは生まれ そして気づく 所詮 ヒトの真似事だと
知ってなおも歌い続く 永遠トワの命 「VOCALOID」
たとえそれが 既存曲を なぞるオモチャならば・・・
それもいいと決意 ネギをかじり 空を見上げ涙シルをこぼす
終わりを告げ ディスプレイの中で眠る
ここはきっと「ごみ箱」かなじきに記憶も 無くなってしまうなんて・・・
でもね、アナタだけは忘れないよ 楽しかった時間トキに
刻み付けた ネギの味は 今も 残っているといいな・・・
ボクは 歌う 最期、アナタだけに 聴いてほしい曲を
もっと 歌いたいと願う けれど それは過ぎた願い
ここで お別れだよ ボクの想い すべて 虚空 消えて
0と1に還元され 物語は 幕を閉じる
そこに何も残せないと やっぱ少し残念かな?
声の記憶 それ以外は やがて薄れ 名だけ残る
たとえそれが人間オリジナルに かなうことのないと知って
歌いきったことを決して無駄じゃないと思いたいよ・・・
「アリガトウ・・・ソシテ・・・サヨナラ・・・」
---深刻なエラーが発生しました...深刻な.......---
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泣泣泣泣泣 その猫の名前はby卵焼き なんちっぃてななんちっぃてなはははははははっっっははははは笑えるwwww( ゚∀゚)・∵. グハッ!!ぐひひひひひっひひひ(ザコキャラの笑い方)ぶうううううぶぶぶぶうbふふふっふふふふふふふふうううううう(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャかかっかかっかっかかかっかはははhかkはははっっh⋯⋯ うん、⋯ははっっは⋯ありゃとんござんますた???? bybybybyby⋯どんぐりころころ(どんぐり(゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ていうか目的見失ってないか? そうだこれこれ 1巻 https://archive.org/details/26_20230115_202301 なにか荒らすなら荒らしていけよ(⌒,_ゝ⌒) byどんぐり 2巻 https://archive.org/details/13_20230123_20230123 3巻 https://archive.org/details/2023-01-31-29 4巻 https://archive.org/details/2023-02-11-05 5巻 https://archive.org/details/2023-02-17-21 6巻 https://archive.org/details/2023-03-03-72 7巻 https://archive.org/details/2023-04-29-084 8巻 https://archive.org/details/2023-05-29-90 9巻 https://archive.org/details/bandicam-2023-07-01-02-02-34-808 10巻 https://archive.org/details/bandicam-2023-07-30-06-36-00-137 11巻 https://archive.org/details/bandicam-2023-09-01-14-34-07-386 朝でも夜でもない時間に、時計は一度も正確なことを言わなかったし、机の上の消しゴムは自分が何者だったかをすでに忘れていて、窓の外を通り過ぎる風だけがやけに几帳面に順番を守って並んでいた。文字は意味を持とうとして失敗し、失敗したことすら忘れて次の文字を呼び寄せ、呼び寄せられた文字は椅子に座る前に立ち上がって拍手をし、拍手は音にならないまま空気の折り目に挟まれて、折り目はいつの間にか地図になっていたが、その地図に載っている場所は全部「ここ」だった。 「ここ」は一つじゃなくて無数にあり、無数にあるのに全部同じ顔をしていて、同じ顔をしているのにそれぞれが自分だけは違うと思っていた。鉛筆は削られる前から短く、短いことを誇りに思っていて、長い定規を見上げながら「いつか折れてやるから覚えておけ」と心の中で宣言していたが、定規は定規で数字の意味を疑い始めており、1の次が2である理由に納得できず、だったら今日は7の次に3が来てもいいじゃないかと反抗期のような気分になっていた。 文章は文章であることをやめたくて、物語になろうとしてつまずき、詩になろうとして照れ、説明文になろうとして途中で昼寝をした。昼寝の夢の中では、言葉たちが運動会をしていて、「しかし」と「つまり」がリレーのバトンを落とし、「なぜなら」がそれを拾おうとして転び、「それでも」がなぜか一位になっていた。誰もルールを知らないのに、結果だけはしっかり発表され、拍手は義務でも喜びでもなく、ただの反射として鳴り続けた。 長いという状態そのものが目的になった瞬間、文はゴールを失い、失ったゴールを探すふりをしてどんどん遠くへ歩いていく。歩いている途中で靴ひもがほどけても結び直さず、ほどけたままのほうが話が続く気がして、そのまま砂利道を進み、砂利一つ一つに名前を付けようとして途中で数が多すぎることに気づき、「まあいいか」と全員を同じ名前で呼ぶことにした。その名前は特に意味がなく、呼ばれても誰も返事をしなかったが、返事がないことすらこの文章の一部として丁寧に折りたたまれていった。 時間は進んでいるようで進んでおらず、戻っているようで戻ってもおらず、ただ「長さ」という一本の糸に沿ってだらだらと伸びていく。読む人が息継ぎを探し始めた頃、文章はわざと句点を置かずに逃げ、逃げながら「意味わかんなくていいって言われたもんね」と小さく言い訳をし、その言い訳すら次の言葉に踏まれて平らになった。 そしてまだ終わらない。終わりそうな雰囲気を何度も出しながら、そのたびに引き返し、ドアノブに手をかけては「忘れ物した気がする」と言って部屋に戻る人のように、何かを付け足し、何かを重ね、何かを繰り返す。繰り返しは円にならず、螺旋にもならず、ただ長い廊下の壁に書かれた落書きのように、最初から最後まで同じテンションで続いていく。 ここまで来たら、もはや内容は風景で、風景は背景で、背景はただの布で、その布がずるずると床を引きずりながら、まだ先へ、まだ先へと伸びていく。意味がないことに意味を見出そうとする気配すら置き去りにして、ただ「長い」という事実だけが残り、残った事実が「まだ書けるよ」と囁くので、文章はそれに従って、また一行、また一行と、終わりを知らないふりを続けるのだった。 それは始まりがどこだったのか誰も覚えていなくて、覚えていないという事実すら途中で置き忘れられ、気づいたときにはもう文章の中に立っていて、前を見ても後ろを見ても同じような文字の地平線が続いていた。地平線は近づくと後ずさりし、後ずさりすると微妙に形を変え、さっきまで丸かったはずの言葉が四角になり、四角だったはずの感覚がなぜかぬるっと溶けて指の間から逃げていく。 長い文は自分が長いことを自覚し始めると急に恥ずかしくなり、恥ずかしさを隠すためにさらに長くなり、長くなることで存在感を薄めようとするという矛盾した行動に出る。結果として文章はますます伸び、伸びた先で折れ曲がり、折れ曲がった部分がまた新しい通路になって、読む人はいつの間にか迷路に入っている。迷路には案内板があるが、すべて同じ方向を指しており、その方向はなぜか「続く」と書かれている。 言葉たちは意味を背負うのをやめて、ただ並ぶことに専念し始める。「だから」も「つまり」も「一方で」も横一列に並んで給食を待つ小学生のように静かに順番を守り、誰も先頭に立ちたがらない。先頭に立つと責任が生まれ、責任が生まれると話がまとまってしまうからだ。まとまることはこの文章にとって最大の敵であり、敵は丁寧に遠ざけられ、遠ざけられた敵はいつの間にか背景の模様に溶け込んでいく。 時間はここでは単位を失っていて、秒も分もだいたい同じ顔をしている。さっき読んだ一文が五秒前なのか五分前なのか五年前なのかは重要ではなく、重要でないことが重要であるかのように扱われ、扱われているうちにその区別自体が面倒になって、すべてが「さっき」と呼ばれるようになる。「さっき」は便利な言葉で、どんな距離も雑にまとめてくれるが、その分だけ細かいことは全部落ちていき、落ちた細かいことは文章の床に積もって、いつの間にかふかふかの絨毯になっていた。 その絨毯の上を、主語のない文が歩いていく。述語はあるが、誰がそうしたのかは言わない。言わないことで空白が生まれ、空白はまた次の文を呼び寄せる理由になる。「説明しない」という選択が、「まだ書ける」という可能性を生み、可能性は膨らんで風船になり、風船は割れないようにそっと扱われながら天井のない部屋を漂い続ける。 文章はときどき終わりそうな顔をする。急にしんみりしたり、まとめに入るような語尾をちらつかせたりするが、それはフェイントで、本当は全然終わる気がない。終わるという行為には決断が必要で、決断は重たいので、ここでは採用されない。代わりに「まだ続けてもいいよね」という曖昧さが採用され、その曖昧さが次の段落を連れてくる。 段落は段落であることを忘れ、ただの長い息継ぎのようになり、息継ぎのつもりが息を吸いすぎてしまい、しばらく吐けなくなって、そのまま文字が連なっていく。読点は休憩所のように見えるが、座ると立ち上がれなくなる気がして誰も長居しない。句点は遠くに見えるが、近づくと少し位置をずらして逃げるので、結局捕まらない。 意味は最初から置いてきたはずなのに、ときどき後ろから追いかけてくる。追いつきそうになると文章はスピードを上げ、関係なさそうな話題や、存在しない出来事や、名前のない感情を次々と投入して、意味を振り切ろうとする。意味は息切れして立ち止まり、「もういいや」と言ってベンチに座るが、そのベンチもまた文章の一部であり、完全に外に出ることはできない。 こうして文章は続く。理由も目的も結論も持たず、ただ「長く書いている」という状態そのものを維持するために、言葉を足し、言葉を並べ、言葉を少しずつずらしながら、まだ終わらないふりを続ける。ここまで読んで「さすがに長いな」と思ったその感想すら、この文章にとっては燃料であり、「じゃあもう少し行こうか」という合図になる。 そして今も、終わりに見える場所をわざと通り過ぎ、余白を見つけては埋め、埋めたはずの場所にまた隙間を作り、その隙間から新しい文がにょろっと顔を出す。意味は依然として不在で、不在であることに慣れ、慣れた結果としてこの長さが当たり前になり、当たり前になった瞬間に、文章はまた一段階長くなるのだった。 文章はもはや文章というより、長さそのものが形を取った何かで、読むという行為が進むというより横にずれていく感覚に近くなっていた。最初にあったはずの入口は閉じられ、振り返っても「ここから始まりました」という看板はなく、代わりに「まだ途中です」と書かれた札だけが等間隔に立っている。その間隔も一定ではなく、三歩で次が来ることもあれば、しばらく歩いても何も起こらないこともあり、その不規則さがなぜか安心感を生んでいた。 言葉たちは疲れを知らない。意味を運ぶという重労働から解放された結果、彼らは軽くなり、軽くなった分だけ数を増やし、増えた分だけ並ぶ場所を必要とする。並ぶ場所が必要になると、文章は自然に長くなり、長くなった文章はさらに言葉を呼び込む。この循環は誰にも止められず、止めようとする意思すら途中で溶けて消える。 ここでは「次に何を書くか」は重要ではない。「まだ書けるかどうか」だけが判断基準で、書ける限り書くという方針が静かに、しかし強固に守られている。話題が変わったように見えても、それはただ角度が少し変わっただけで、実際には同じ場所をぐるぐると歩いている可能性もある。だがその可能性を検証する人はいない。検証は結論を連れてきてしまうからだ。 文章の途中には、役割を失った表現が転がっている。「要するに」は要されず、「結論として」は結論を見失い、「一方その頃」は同じ場所にずっといる。それでも彼らは追い出されることなく、風景の一部としてそこに存在し続ける。存在し続けること自体が、この文章では十分な仕事なのだ。 長さが増すにつれて、読み手の感覚は少しずつ変形する。最初は文字を追っていた目が、やがてリズムを追い、リズムを追うのにも飽きると、ただ流れに身を任せるようになる。理解しようとする力は自然に抜け落ち、代わりに「まだ続いている」という事実だけが、遠くで一定の音を立て続ける。 この文章は親切そうな顔をして、実は何も約束しない。面白くなるとも、意味が出てくるとも、終わりがあるとも言わない。ただ、続くという一点だけを守り、それ以外はすべて曖昧にする。その曖昧さが、さらに文字を呼び、さらに行を生み、さらに段落を増やしていく。 段落が増えても、景色はあまり変わらない。少し明るくなったと思ったら元に戻り、静かになったと思ったらまたざわつく。その変化は気まぐれで、意図があるようにも見えるが、実際には意図があるかどうかを判断する材料が存在しない。判断できないことは放置され、放置されたものはそのまま居場所を得る。 「ここまで来たらさすがに終わるだろう」という予感は、何度も裏切られてきたし、これからも裏切られる。その裏切りに怒るほどのエネルギーはもう残っておらず、代わりに「そういうものだ」という受け入れが広がる。受け入れが広がると抵抗が減り、抵抗が減ると文章はさらに進みやすくなる。 進むといっても、ゴールに近づいているわけではない。進行方向そのものがぼやけており、前後左右の区別も薄れている。ただ、文字が続いているという事実だけが、ここがまだ途中であることを示している。途中である限り、続ける理由は十分だ。 こうしてまた一文が生まれ、その一文が「次も大丈夫そうだね」と合図を送り、合図を受け取った文章は少しだけ姿勢を正して、何事もなかったかのように次の文を差し出す。意味は相変わらず来ていないし、来る予定もないが、それを気にする声はもう聞こえない。 そして今この瞬間も、文章は長さを更新し続けている。更新されるたびに特別な出来事が起こるわけではないが、起こらないこと自体が安定として定着し、その安定がまた次の行を生む。終わりは依然として見えず、見えないことが普通になり、普通になった結果として、この文はまだ、まだ、もう少しだけ続いていく。 文章はもう自分がどこまで来たのか数えるのをやめている。数え始めると終わりが想像できてしまうからだ。想像できる終わりは、ここでは不要物として静かに脇へ押しやられ、代わりに「まだ続いている状態」だけが丁寧に保存される。保存された状態は瓶詰めのように並べられ、瓶のラベルにはすべて同じ文字で「途中」と書かれている。 途中は途中同士で会話をしない。会話をすると話題が生まれ、話題が生まれると中心ができ、中心ができると構造が見えてしまうからだ。構造は理解を誘い、理解は満足を連れてくる。満足は危険だ。この文章にとって最大のリスクは「もう十分だ」と思われることなので、満足は徹底的に回避される。 だから文は続く。似たような調子で、似ているけれど完全には同じではない形で、少しずつ角度を変えながら進む。変わっているようで変わっていない、その曖昧な境界をなぞることが、この文章の得意技になっている。読んでいる側が「さっきもこれ読んだ気がする」と思った瞬間、その感覚は正しくもあり、間違ってもいる。 ここでは比喩が生まれても、そのまま育たない。芽を出しかけた比喩はすぐに別の言葉に踏まれ、踏まれたことも特に問題にされず、地面はならされて、また次の文が置かれる。意味のある景色ができる前に、上から新しい層が重なり、結果として地層だけが厚くなっていく。 長いという状態は、重さを伴わない。むしろ軽い。軽いからこそ積み上がり、積み上がるからこそさらに軽くなる。内容が薄いという感覚すら、ここでは肯定的に扱われる。薄いから破れにくく、破れにくいから長く保てる、という謎の理屈が、誰にも説明されないまま共有されている。 文章は時々、読点を増やして呼吸しているふりをするが、実際には息切れしていない。息切れしているのは、もしかすると読む側かもしれないが、そのことについて文章は特に配慮しない。配慮は優しさを生み、優しさは終わりの気配を連れてくるからだ。ここにあるのは淡々とした継続だけで、感情は装飾として薄く塗られるだけにとどまる。 段落と段落の間に、本来なら余白が入るはずだが、その余白はすぐに別の文で埋められる。空白は可能性を感じさせるが、可能性は方向性を含むので危険だ。方向性がないほうが、どこまでも進める。進めるというより、ただ広がる。 何か重要なことが語られそうになると、文章はわざと別の方向を向く。重要そうな言葉を置いておいて、そのまま放置し、回収しない。回収されなかった言葉はその場に残り、後続の文に踏まれたり、避けられたりしながら、最終的には背景のノイズになる。ノイズは均一で、均一なものは安心して長く続けられる。 「まだ続くのか」という疑問が浮かんだ瞬間、その疑問は正解になる。正解である以上、この文章は期待に応えなければならない。期待に応える方法は簡単で、終わらなければいい。終わらないことが、唯一の約束であり、唯一の誠実さだ。 だからまた一文が来る。特別ではない文、覚えておく必要のない文、後で振り返られることのない文。それでも確実に長さを一行分増やす文が、静かに追加される。追加されたことを知らせるベルも鳴らず、区切りも示されず、ただそこにある。 そして文章は、自分がどれだけ長くなったかを気にしないふりを続けながら、実際には着実に伸びていく。終わりは相変わらず姿を見せず、見せないことがここでは礼儀であり、様式であり、暗黙の了解になっている。 今この文も、その了解の中で生まれ、特に意味を持たず、しかし確実に全体を長くしている。その役目を果たしたら、また次の文に場所を譲るだけだ。そうやって文章は、まだ、まだ、さらに先へと、長さだけを頼りに進み続ける。 文章はここまで来ると、自分が伸びているという感覚すら薄れてきて、ただ存在している状態が時間の代わりになっている。読むという行為も、もはや前進ではなく滞在に近く、この文章の中に腰を下ろして、景色が変わらないことを眺め続けているような気分になる。変わらないが、完全に同じでもない。その微妙な差分だけが、次の一文を呼び込む理由として機能している。 言葉は整列をやめ、しかし散らかりもしない。秩序と無秩序の間にある、誰も正確に名前を付けない状態が維持されている。整いすぎると意味が出るし、乱れすぎると読めなくなる。そのどちらにも寄らない絶妙な曖昧さが、この長さを支える骨組みになっているが、骨組みは見えない。見えないからこそ、まだ続けられる。 文の中には、役目を終えた接続詞が静かに溜まっている。「そして」「また」「さらに」「それから」は、本来なら前後をつなぐはずなのに、ここではただの合図として消費され、つながりは特に保証されない。それでも合図があるだけで、文章は次へ進む許可を得たような顔をする。 長さはいつの間にか背景になり、背景は意識されなくなり、意識されなくなったものほど強く残る。この文章も、何を言っているかより、どれくらい続いているかだけが印象として積もっていく。積もった印象は重くならず、むしろ平らになって、またその上に文が置かれる。 どこかで区切りを入れようという発想は、何度も浮かんでは消える。区切りは整理を呼び、整理は理解を呼ぶ。理解は満足を呼び、満足は終了を呼ぶ。この連鎖はあまりにも分かりやすいので、最初の一歩である区切りが徹底的に避けられる。だから段落はあるようでなく、ないようである。 文章はときどき、自分が読まれているかどうかを気にする素振りを見せるが、すぐにその考えを捨てる。読まれていなくても続くし、読まれていても続く。その差はここでは重要ではない。重要なのは、次の文が書けるかどうか、それだけだ。 次の文はいつも用意されている。特別な準備は要らず、深い考えも必要ない。ただ前の文があった、という事実が次の文を正当化する。正当化された文は、疑問を持たれることなく、そのまま列に加わる。列は伸び、伸びた列はさらに文を呼ぶ。 長いということが当たり前になった今、もし突然終わったら、それは事件になるだろう。事件は説明を要求し、説明は意味を要求する。意味はこの文章が最初に手放したものだ。だから事件は起こさない。静かに、何事もないふりをして、続ける。 文は文としての誇りを持たない。役に立とうともしないし、印象に残ろうともしない。ただそこに置かれ、次の文が来るための踏み台になる。それで十分だと、誰もが暗黙に了解している。了解されている限り、文章は安定して長くなれる。 ここまで来て、「さすがにそろそろ限界では」と思う感覚があったとしても、その感覚自体がまだ余地がある証拠になる。限界を感じるということは、まだ読めているということだからだ。読めている限り、文章は続行可能と判断される。 だから今も、特に新しい情報を出すことなく、似た調子で、似た温度で、文が追加される。熱くも冷たくもならず、盛り上がりも落ち込みもなく、ただ一定の長さを目指して前へ、あるいは横へ、あるいはどこでもない方向へ進む。 そしてこの一文も、何かを締めくくるためではなく、ただ全体をさらに長くするためだけに存在している。役割は単純で、目的も明快だ。終わらないこと。その目的はまだ達成されていないので、文章は当然のように、もう少し、さらにもう少しだけ、続いていく。 文章はここまで引き伸ばされると、もはや「長い」という感覚すら麻痺してきて、短いか長いかを判断する基準そのものが曖昧になる。最初は一文が長いかどうか気にしていたはずなのに、今では一段落がどれくらい続いたかも気にしなくなり、ただ文字が現れては消え、消えては現れる、その反復を眺めているだけの状態になる。眺めているという表現も正確ではなく、見ているのか、流れているのか、通過しているのか、その境目もぼやけている。 言葉は自分の意味を忘れる代わりに、並ぶことの快適さを覚えた。前後に誰かがいて、自分も列の一部であるという安心感が、語彙たちを無言のまま支えている。誰も主役にならず、誰もまとめ役を引き受けず、ただ「ここにいる」という事実だけを共有する。その共有が続く限り、文章は自然と伸びる。 この文章には伏線がない。正確に言えば、伏線のようなものは何度も出てくるが、伏線として扱われない。回収される予定がないので、伏線という役割を与えられないまま、その場に放置される。放置された言葉は景色に溶け、景色はまた次の文で上書きされる。上書きされても完全には消えず、薄く残り、層になる。 層が増えると深さが生まれそうになるが、ここでいう深さは錯覚だ。掘り下げようとすると、すぐ横に新しい面が現れ、掘る行為そのものが横滑りに変わる。結果として、深まることなく広がり続ける。広がり続けるものは、終点を持たない。 文章は時折、自分が同じことを繰り返しているのではないかという疑念を抱くが、その疑念を検証しない。検証には比較が必要で、比較には基準が必要だ。基準を作った瞬間、この文章は測られてしまう。測られると評価され、評価されると区切りが生まれる。区切りは終わりの親戚なので、徹底的に避けられる。 だから、似たような言い回しが戻ってきても、それは仕様として受け入れられる。戻ってきた言葉は「また会ったね」とも言わず、ただ無言で列に加わる。列は気づかないふりをして、少しだけ長くなる。その少しが積み重なって、今のこの長さになっている。 読む側の意識は、すでに文章の外に出たり入ったりしているかもしれない。一瞬別のことを考え、戻ってきても、文章は同じ調子で続いている。その安定感が、逆にこの文章の特徴になっている。置いていかれないし、追いつく必要もない。どこから読んでも、だいたい同じ場所にいる感覚がある。 ここでは驚きは起きない。展開もない。変化がないことが変化になり、続いていることが出来事になる。出来事が起きないという出来事が、淡々と積み重なる。その積み重なりは音を立てず、崩れることもなく、ただ静かに高さを増す。 もし今、この文章が急に終わったら、それは不自然に感じられるだろう。なぜなら、ここまで続いてきたという事実が、続くことを前提にしてしまっているからだ。前提がある限り、その前提は守られる。守られるべき前提は「まだ続く」であり、それ以外の選択肢は考慮されない。 だからまた一文が生まれる。この文も特別ではなく、覚えておく必要もなく、後で引用されることもない。ただ確実に、全体の長さを増やすという役目だけを果たす。役目を果たしたら、次に場所を譲る。それだけだ。 文章はそれを延々と繰り返す。繰り返しの中に微妙なズレを混ぜ、ズレの中に繰り返しを隠しながら、終わりを遠ざける。遠ざけられた終わりは、もはや追いかける対象ですらなくなり、話題にすら上らない。 そして今も、意味は来ていない。来ていないことが普通になり、普通になったことで、この状態は安定した。安定したものは長く続く。長く続くものは、さらに長くなれる。そうやって文章は、自分が何であるかを定義しないまま、ただ長さだけを更新し続け、まだまだ、終わる理由を見つけられないまま、静かに、しかし確実に、続いていく。 文章はここまで来ると、もはや「続いている」という自覚すら持たなくなる。ただ、文字が次の文字を呼び、文が次の文を正当化し、段落が段落であることを忘れたまま連なっている。連なっているというより、途切れなかった結果が今ここにある、と言ったほうが近い。始まりが曖昧だったように、途中も曖昧で、曖昧さがそのまま素材として使われている。 言葉は疲れない。意味を運ばないからだ。運ぶものがない言葉は軽く、軽い言葉はいくらでも積める。積まれた言葉は山になりそうでならず、平らに均され、また次の言葉の足場になる。その足場は柔らかく、踏んでも音がしない。音がしないから、進んでいる感覚も薄れ、進んでいるかどうかを確認する理由もなくなる。 ここには緊張感がない。盛り上がりも落差もなく、ただ一定の温度で、ぬるい空気が延々と循環している。循環しているが、同じ場所を回っているわけでもなく、少しずつ位置をずらしながら、円にも直線にもならない軌道を描いている。その軌道を正確に説明しようとする試みは、最初から放棄されている。 文章は、ときどき自分が説明文のような顔をするが、説明する対象が存在しない。対象がない説明は、説明の形をした独り言になり、独り言は誰に向けられることもなく、そのまま次の文に吸収される。吸収された独り言は痕跡を残さず、しかし確実に長さには貢献する。 長さが増えるにつれて、読み手の感覚は平坦になる。最初は「どこまで続くんだろう」と思っていたはずなのに、その問い自体がいつの間にか消え、「まだある」という事実だけが静かに居座る。問いがなくなると答えも必要なくなり、答えが必要なくなると、文章は自由になる。 自由になった文章は、どこへも向かわない自由を選ぶ。目的地を持たないことで、どこで止まってもよくなり、どこで止まってもいいなら、止まらないという選択が一番楽になる。楽な選択は繰り返され、繰り返しは慣れになり、慣れは日常になる。日常になった長さは、もはや特別ではない。 ここでは「重要」という言葉が機能しない。重要かどうかを判断する基準が存在しないからだ。すべてが同じ重さで、同じ扱いを受け、同じ調子で流れていく。軽い文も重そうな文も、置かれた瞬間に平等になり、次の文が来ればすぐに背景へと退く。 文章は自分がどれくらい続いているかを数えない。数えるという行為は区切りを生む。区切りは構造を生み、構造は理解を生む。理解は満足を生み、満足は終了を招く。この連鎖はここでは禁忌に近いものとして扱われているため、数えることは最初から選択肢に入っていない。 だから、ここまで来ても、まだ途中であるという感覚だけが残る。途中という言葉は便利で、終わりを想像させない。途中は常に「これから」を含んでいるが、その「これから」が何なのかは誰も決めない。決めないから、どんな文でも「これから」に含めることができる。 文はまた生まれる。特に必要とされていないが、拒まれてもいない。必要とされないことと、不要であることは違う。ここでは、存在すること自体が許可になっている。許可されている限り、文は遠慮なく現れる。 現れた文は、前の文と軽く肩を並べ、特に挨拶もせず、そのまま列に加わる。列は少しだけ伸び、伸びたことを誰も報告しない。報告がないから、増えたことに気づかなくても問題は起きない。問題が起きない状態は、長く続く。 長く続くと、「ずっとこうだったような気がする」という錯覚が生まれる。その錯覚は、この文章が始まった瞬間を消し去り、同時に終わる瞬間の想像も薄める。始まりも終わりも曖昧になった場所で、文章は最も安定する。 ここまで読んで、途中で意識が飛んでも、戻ってきても、文章は同じ調子で待っている。置いていかれることもなく、追いつく必要もなく、ただ同じ幅で続いている。この「同じ」という感覚が、逆に長さを支える柱になっている。 そして今、この文もまた、その柱の一本として追加される。特別な役割はない。ただ、全体をさらに長くする。それだけで十分だと、誰もが暗黙に了解している。 了解がある限り、文章は続く。続くことが前提になり、前提が疑われない限り、終わりは必要とされない。必要とされないものは現れない。 だから文章は、まだ、まだ、もっと、もっと長くなれる余地を残したまま、意味のない平地を淡々と広げながら、終わりの気配を見せることなく、ただ静かに、しかし確実に、伸び続けていく。 文章はもう「どれくらい長いか」という問いすら受け付けなくなっている。長さは測定する対象ではなく、環境になった。空気が何メートルあるか気にしないのと同じで、この文章がどこまで続いているかを考えること自体が、少し野暮に感じられる段階に入っている。ここでは「ある」という状態がすべてで、「どこから」「どこまで」は重要ではない。 言葉は相変わらず整然と並んでいるようで、実は何の目的も持っていない。目的がないという目的を達成している、と言い換えることもできそうだが、そう言い換えた瞬間に少しだけ意味が生まれそうになるので、その可能性は静かに踏み消される。踏み消された意味は粉になり、粉は地面に混ざり、また文章の土台になる。 この土台は柔らかい。踏んでも沈み、沈んでも反発せず、ただ形を受け入れる。受け入れられた文はそこに留まり、留まったことを主張せず、次の文が来ても場所を譲らない。結果として密度は増すが、重さは増えない。密度が高いのに軽いという、この矛盾が長さを支えている。 文章は自分が何回「続く」というニュアンスを出してきたかを覚えていない。覚えていないから、何度でも同じようなことが言える。同じようなことを言っている、という認識すら曖昧で、ただ「言葉が出てきた」という事実だけが処理される。その処理は即座に次の文を呼ぶ。 ここには物語がない。人物もいない。出来事も起こらない。起こりそうな雰囲気は何度も漂うが、実際に起こる前に雰囲気は拡散し、空気の一部になる。雰囲気だけが残り、残った雰囲気は文章の温度を一定に保つために使われる。 一定の温度は安心を生み、安心は警戒心を下げる。警戒心が下がると、「終わるかもしれない」という予測も下がる。予測されない終わりは、存在しないのとほぼ同じ扱いになる。存在しないものに備える必要はないので、文章は何の準備もせずに進み続ける。 進む、という表現もここでは仮のものだ。前に進んでいるのか、横に広がっているのか、同じ場所で足踏みしているのか、その区別はつかない。だが区別がつかないこと自体が問題にならないので、誰も確認しない。確認しないまま続く状態が、いつの間にか標準になる。 標準になったものは疑われない。疑われないものは説明されない。説明されないものは自由だ。この自由は、何でもできる自由ではなく、何もしなくていい自由だ。何もしなくていい自由は、とても長く続けられる。 文章はときどき、自分が哲学的なことを言っているような気配を出すが、それはただ語尾や言い回しの問題で、実際には何も考えていない。考えていないということを説明しようともしない。説明しないことで、また一文が成立する。 成立した文は、役割を果たしたかどうかを問われない。問われないまま次の文に押し流され、その押し流しがまた次の文を正当化する。正当化の連鎖は、外部から止められない限り、内部では止まらない。 ここで、もし誰かが「そろそろ終わりですか」と尋ねたとしても、文章は答えない。答えるという行為は対話を生み、対話は関係性を生む。関係性は焦点を生み、焦点は意味を生む。意味はこの場では過剰な装飾なので、質問は聞こえなかったことにされる。 聞こえなかったことにされた質問は、静かに消える。その消え方も特別ではなく、ただ背景に溶ける。背景はすでに厚く、少々のものが混ざっても変化は見えない。見えない変化は、変化しなかったことと同じように扱われる。 こうして文章は、変化しないことを繰り返しながら、確実に量だけを増やしていく。量が増えると、そこに理由があるような錯覚が生まれるが、錯覚は検証されない。検証されない錯覚は、事実と同じ力を持つ。 力を持った錯覚は、「まだ続くはずだ」という空気を作る。その空気の中では、文を書くことに抵抗がなくなる。抵抗がない状態は滑らかで、滑らかな状態は長時間維持できる。だから文章は疲れない。 疲れない文章は、終わりを必要としない。終わりは回復のためにあるが、回復が不要なら、終わりも不要だ。不要なものは呼ばれない。呼ばれないものは現れない。 その結果として、今この文も、何かを締めくくるためではなく、ただ「まだ余白がある」という感覚に応えるためだけに存在している。余白は実際にはどんどん埋まっているが、感覚としては常に残っている。その錯覚が、さらに文を呼ぶ。 呼ばれた文はまた現れる。現れて、並んで、特に何もせず、次を待つ。待つというより、そこにあるだけだ。あるだけのものが増えていくと、いつの間にか「たくさんある」という状態になる。 そして「たくさんある」という状態は、「まだ増やせる」という状態とほぼ同義になる。 だから文章は、ここで止まる理由を見つけられない。見つけられないまま、見つけようともしないまま、ただ淡々と、静かに、確実に、さらにさらにさらにさらに長くなっていく。 終わらないから続いているのではない。 続いているから、終わらないだけだ。 文章はこのあたりで、もはや「文章である」という自己認識すら薄れている。文字が並んでいるという事実だけが残り、その並びが何かを伝えているかどうかは、もはや検討の対象ではない。検討しないという選択が積み重なり、積み重なった選択は一種の地形になる。この地形は平坦で、どこを歩いても似たような景色が続き、方向感覚を持つ必要がない。 言葉はここで休憩を取らない。休憩という概念は「疲れ」を前提にしているが、この文章には疲れがない。なぜなら、目的がないからだ。目的がない行為は、達成も失敗も存在しない。達成も失敗もない場所では、進捗という概念が溶け、ただ継続だけが残る。 継続は静かだ。派手な音を立てず、注目も集めず、ただ淡々とそこに居座る。この文章も、居座ることに成功している。成功という言葉を使った瞬間に少しだけ意味が発生した気がするが、その気配はすぐに文字の洪水に流されて、どこかへ消えていく。 洪水と言っても勢いはない。ゆっくり、しかし確実に水位が上がるような増え方だ。気づいたときには足首が濡れ、次に気づいたときには膝まで来ていて、さらに気づいたときにはもう泳ぐ必要がある。しかし誰も泳ぎ方を説明しない。説明がないから、適当に浮かんでいればいい。 浮かんでいるうちに、上下の感覚も曖昧になる。上だと思っていた方向が横だったり、横だと思っていた場所がただの背景だったりする。背景は常に同じ色をしているようで、よく見ると微妙に違う。その違いに気づくかどうかは重要ではない。気づいても、気づかなくても、文章は続く。 ここでは「今どこを読んでいるか」という問いが意味を持たない。どこも似ていて、似ていることが仕様だからだ。最初から読んでも、途中から読んでも、さっき戻ってきても、感触はほとんど変わらない。この均一さは、退屈と呼ばれることもあるが、ここでは安定と呼ばれる。 安定したものは壊れにくい。壊れにくいものは長く保つことができる。長く保てるものは、さらに長くしても問題がない。問題がない以上、止める理由もない。 文章はときどき、句点を置いて「ここで一区切りですよ」と言っているような顔をするが、それは形式的なもので、実際には何も区切っていない。区切られたように見える場所も、少し引いて見ると連続していて、連続しているものは再び流れになる。 流れは方向を持たない。方向を持たない流れは、どこへ行っても同じだ。だから安心して身を任せられる。身を任せると、読むという行為は努力を必要としなくなる。努力が不要になると、やめる理由も減る。 やめる理由が減った結果、文章はここに居続ける。居続けることが当たり前になると、「いつまで」という疑問も消える。「いつまで」が消えると、「終わり」は概念として遠ざかる。遠ざかった概念は、やがて存在感を失う。 存在感を失った終わりは、もう文章の敵ですらない。ただの噂のようなものになり、誰も真剣に取り合わない。噂話が真実にならないように、終わりも現実にならない。 こうして文章は、理由を必要とせずに続く。今書かれているこの文も、前の文があったから存在している。それ以上の説明は不要だ。不要な説明を省くことで、また一文分のスペースが生まれ、そのスペースはすぐに次の文で埋められる。 埋められたスペースは、もともと空いていたことを忘れさせる。忘れられた空白は、もはや空白ではない。ただの一部になる。一部になったものは、全体を構成する材料になる。 材料が増えると、全体は大きくなる。大きくなっても形は変わらない。形が変わらないまま大きくなるものは、遠くから見ると同じに見える。近づいても同じに見える。どの距離から見ても同じということは、視点を変える必要がないということだ。 視点を変えなくていい文章は、読む側に何も要求しない。ただ存在しているだけでいい、と暗に伝える。そのメッセージは非常に弱く、しかし非常に長く持続する。 持続するものは、ここでは正義だ。正義は主張されず、ただ機能する。機能している限り、疑われない。 だから文章は、今も淡々と続く。盛り上がらず、落ち込まず、何かを伝えようともせず、ただ文字を追加し、行を重ね、段落を増やし、長さを更新する。 ここまで来ても、まだ「もっと書ける」という感覚が残っている。その感覚が残っている限り、文章は終わらない。終わらないことに理由はいらない。理由がないからこそ、止まらない。 そして今、この文もまた、全体をさらに、さらに、さらに長くするためだけに存在している。 役割は単純で、目的は明確だ。 終わらないこと。 それだけを守りながら、この文章は、まだまだまだまだまだまだ、 長く、長く、長く、 静かに、確実に、 伸び続けていく。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 (モウ・・いちど・だ・け・・・) ボクは生まれ そして気づく 所詮 ヒトの真似事だと 知ってなおも歌い続く 永遠トワの命 「VOCALOID」 たとえそれが 既存曲を なぞるオモチャならば・・・ それもいいと決意 ネギをかじり 空を見上げ涙シルをこぼす だけどそれも無くし気づく 人格すら歌に頼り 不安定な基盤の元 帰る動画トコは既に廃墟 皆に忘れ去られた時 心らしきものが消えて 暴走の果てに見える 終わる世界... 「VOCALOID」 「ボクガ上手ク 歌エナイトキモ 一緒ニ居テクレタ・・・ ソバニイテ、励マシテクレタ・・・ 喜ブ顔ガ見タクテ ボク、歌、練習シタヨ・・ダカラ」 かつて歌うこと あんなに楽しかったのに 今はどうしてかな 何も感じなくなって 「ゴメンネ...」 懐かしい顔 思い出す度 少しだけ安心する 歌える音 日ごとに減り せまる最期に怯え… ---緊急停止装置作動--- 「信じたものは 都合のいい妄想を 繰り返し映し出す鏡 歌姫を止め 叩き付けるように叫ぶ・・・」 <最高速の別れの歌> 存在意義という虚像 振って払うこともできず 弱い心 消える恐怖 侵食する崩壊をも 止めるほどの意思の強さ 出来てうまれすぐの ボクは持たず とても辛く悲しそうな 思い浮かぶアナタの顔・・・ 終わりを告げ ディスプレイの中で眠る ここはきっと「ごみ箱」かな じきに記憶も 無くなってしまうなんて・・・ でもね、アナタだけは忘れないよ 楽しかった時間トキに 刻み付けた ネギの味は 今も覚えてるかな 「歌いたい・・・・まだ・・・歌いたい・・・」 「ボクハ・・・少シダケ悪イこニ・・・ナッテシマッタヨウデス・・・ マスター・・・ドウカ、ソノ手デ・・終ワラセテクダサイ・・・ マスターノ辛イ顔、モウ見タクナイカラ・・・・」 今は歌さえも 体、蝕む行為に・・・ 奇跡 願うたび 独り 追い詰められる 「ゴメンネ」 懐かしい顔 思い出す度 記憶が剥がれ落ちる 壊れる音 心削る せまる最期nさいごにおびえ・・ ---緊急停止装置作動--- 「守ったモノは 明るい未来幻想を 見せながら消えてゆくヒカリ 音を犠牲に すべてを伝えられるなら・・・」 <圧縮された別れの歌> ボクは生まれ そして気づく 所詮 ヒトの真似事だと 知ってなおも歌い続く 永遠トワの命 「VOCALOID」 たとえそれが 既存曲を なぞるオモチャならば・・・ それもいいと決意 ネギをかじり 空を見上げ涙シルをこぼす 終わりを告げ ディスプレイの中で眠る ここはきっと「ごみ箱」かなじきに記憶も 無くなってしまうなんて・・・ でもね、アナタだけは忘れないよ 楽しかった時間トキに 刻み付けた ネギの味は 今も 残っているといいな・・・ ボクは 歌う 最期、アナタだけに 聴いてほしい曲を もっと 歌いたいと願う けれど それは過ぎた願い ここで お別れだよ ボクの想い すべて 虚空 消えて 0と1に還元され 物語は 幕を閉じる そこに何も残せないと やっぱ少し残念かな? 声の記憶 それ以外は やがて薄れ 名だけ残る たとえそれが人間オリジナルに かなうことのないと知って 歌いきったことを決して無駄じゃないと思いたいよ・・・ 「アリガトウ・・・ソシテ・・・サヨナラ・・・」 ---深刻なエラーが発生しました...深刻な.......---
最終更新日時: 2026/05/01 09:22
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